〔壮年期から晩年〕
慶長2年(1597)、守山城から富山城に移る。翌慶長3年、利家が隠退。後を襲って加賀を領し、金沢城に入る。慶長4年(1599)利家は死去し、父に代わって五大老に列する。反徳川の旗頭の一人と目されたが、「大坂にあって秀頼公を補佐すべし」という父の遺言にそむいて(家康の勧めもあり?)帰国。家康との合戦準備のための帰国との憶測もあった中、徳川氏との対立を回避するため、慶長5年(1600)5月、実母芳春院を人質として江戸に送る。(これが先例となり、東軍に与した細川、浅野などの大名もこれに倣ったといわれている)このとき家康は、異母弟利常と将軍秀忠の娘珠姫(秀頼の室千姫は実姉。因みに相婿の利常と秀頼は同い年)との婚儀を約し、翌年3歳の珠姫が金沢に輿入れしている。また、家康の重臣、本多正信の次男政重を家老として召し抱えるなど、徳川との関係強化を図っている。
慶長5年9月に関が原で天下分け目の戦いが繰り広げられるが、このとき利長は関が原には居合わせていない。北陸地方は西軍の将、敦賀の大谷吉継の勧誘活動により、越前から、加賀南部にかけての諸将は西軍に与するものが多かったといわれる。利長は東軍の将として、これらを制圧するため丹羽長重が守る小松城を包囲するなど掃討作戦を展開しており、これに手を焼いた(浅井畷の戦など)うえ、実弟の利政が東軍参加を拒んだことなどがあって、ついに関ヶ原に間に合わなかったのだともいわれるが、真相はわからない。
戦後、加賀、越中、能登の三国120万石を領する外様最大の大名として遇されたが、慶長10年(1605)家督を利常に譲り、自らは新川郡22万石を養老領として富山城に隠退した。さらに慶長14年(1609)、富山城を焼け出されると、ただちに幕府に願い出て高岡に隠居城を築いて町を開く。
高岡の町には以前居城した富山をはじめ、領内はもとより加越能3州から人々があつまり、町としての装いを整えた。その一方で利長は、領内から呼び寄せた鋳物師たちに土地を与えて鋳物場を開設させるなど、殖産興業にも努めた。現在国の有形・無形の民族文化財となっている高岡御車山祭は、利長が町衆に与えて曳かせたものが起源だといわれている。(山車は、もともと秀吉が聚楽第に時の天皇などの行幸を仰いだ時に使用した鳳輦を利家が秀吉から拝領し、更に利長につたえられたものといわれる)
秀頼を擁する大坂方と徳川方の対立がいよいよ深まる中、大坂方は豊臣恩顧の大名に使者を遣わし、勢力拡大を狙った。慶長18年(1613)、高岡城の利長のもとにも使者として織田左門(信長の実弟織田有楽斎長益の次男といわれる)が訪れ、前田家の助勢を懇願した。利長は左門に「自分は病気でお役には立てません。隠居の身の自分の手勢は差し上げますが、当主利常は将軍家の婿でもあり、前田家としてどうするかは彼次第です。自分としてはそこまでは請け負えません。」と返事したと伝えられる。(『高岡町図の弁』)
利長は臨終にあたり「我死なば、すなわち天下自ら統一して太平ならん」といったといわれる。「徳川にとって最大の脅威と目されている(豊臣恩顧の)自分が死ねば、天下騒乱の種がなくなり、(最大外様大名の藩主利常が将軍家と強い絆で結ばれているので)徳川幕府のもとに天下はおのずと平和になっていくはずだ」というのである。
利長は、慶長19年(1614)高岡城で亡くなる。享年51歳。
- ろ・・・高岡城之図(部分、複製)(原資料:金沢市立玉川図書館近世史料館蔵、複製・提供:高岡市立博物館蔵)