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前田利長、利常のプロフィール

前田利長のプロフィール

〔幼年期から青年期〕

前田利長は、前田利家の嫡男として永禄5年(1562)尾張国荒子(現名古屋市中川区)に生まれる。幼名を犬千代、後に孫四郎。若いころは利勝と名乗る。天正9年(1581)安土で信長に仕えていたとき、20歳で信長の娘永姫(のちの玉泉院)と結婚、越前府中(武生市)で3万3千石を与えられる。それまで柴田勝家の下で北陸を転戦していた父利家は越前府中から能登七尾城(23万石)に転ずる。また、このとき佐々成政は、越中半国を与えられている。

天正10年(1582)、信長が京都本能寺で明智光秀に暗殺されると、近江勢田(瀬田)でこの凶報に接した利長は、直ちに織田信雄に合流(諸説あり)、さらに父利家とともに柴田勝家に属する。ポスト信長の覇権を巡って羽柴秀吉と柴田勝家が賤ケ岳で激突。これに敗れ、父とともに秀吉軍に帰順。柴田討伐軍の先鋒として参戦。柴田勝家は北ノ庄で敗死。翌年、利家は旧領安堵のほか加賀国に二郡を加増され、金沢に居城。利長は加賀国松任で4万石を与えられる。

天正12年(1584)、前田家と対立を深めて能登に侵攻した佐々成政を、父利家とともに能登末森城に破る。翌天正13年、秀吉の成政征伐軍に加わり、戦後、利長は成政の旧領の越中3郡(砺波、射水、婦負)を与えられ、守山(高岡市)に入城。その後、秀吉の天下制覇に日本各地を転戦。

  • い・・・高岡開町の祖 二代藩主 前田利長公:前田利長(長光寺本複製)高岡市立博物館蔵

写真:前田利長公画

〔壮年期から晩年〕

慶長2年(1597)、守山城から富山城に移る。翌慶長3年、利家が隠退。後を襲って加賀を領し、金沢城に入る。慶長4年(1599)利家は死去し、父に代わって五大老に列する。反徳川の旗頭の一人と目されたが、「大坂にあって秀頼公を補佐すべし」という父の遺言にそむいて(家康の勧めもあり?)帰国。家康との合戦準備のための帰国との憶測もあった中、徳川氏との対立を回避するため、慶長5年(1600)5月、実母芳春院を人質として江戸に送る。(これが先例となり、東軍に与した細川、浅野などの大名もこれに倣ったといわれている)このとき家康は、異母弟利常と将軍秀忠の娘珠姫(秀頼の室千姫は実姉。因みに相婿の利常と秀頼は同い年)との婚儀を約し、翌年3歳の珠姫が金沢に輿入れしている。また、家康の重臣、本多正信の次男政重を家老として召し抱えるなど、徳川との関係強化を図っている。

慶長5年9月に関が原で天下分け目の戦いが繰り広げられるが、このとき利長は関が原には居合わせていない。北陸地方は西軍の将、敦賀の大谷吉継の勧誘活動により、越前から、加賀南部にかけての諸将は西軍に与するものが多かったといわれる。利長は東軍の将として、これらを制圧するため丹羽長重が守る小松城を包囲するなど掃討作戦を展開しており、これに手を焼いた(浅井畷の戦など)うえ、実弟の利政が東軍参加を拒んだことなどがあって、ついに関ヶ原に間に合わなかったのだともいわれるが、真相はわからない。

戦後、加賀、越中、能登の三国120万石を領する外様最大の大名として遇されたが、慶長10年(1605)家督を利常に譲り、自らは新川郡22万石を養老領として富山城に隠退した。さらに慶長14年(1609)、富山城を焼け出されると、ただちに幕府に願い出て高岡に隠居城を築いて町を開く。

高岡の町には以前居城した富山をはじめ、領内はもとより加越能3州から人々があつまり、町としての装いを整えた。その一方で利長は、領内から呼び寄せた鋳物師たちに土地を与えて鋳物場を開設させるなど、殖産興業にも努めた。現在国の有形・無形の民族文化財となっている高岡御車山祭は、利長が町衆に与えて曳かせたものが起源だといわれている。(山車は、もともと秀吉が聚楽第に時の天皇などの行幸を仰いだ時に使用した鳳輦を利家が秀吉から拝領し、更に利長につたえられたものといわれる)

秀頼を擁する大坂方と徳川方の対立がいよいよ深まる中、大坂方は豊臣恩顧の大名に使者を遣わし、勢力拡大を狙った。慶長18年(1613)、高岡城の利長のもとにも使者として織田左門(信長の実弟織田有楽斎長益の次男といわれる)が訪れ、前田家の助勢を懇願した。利長は左門に「自分は病気でお役には立てません。隠居の身の自分の手勢は差し上げますが、当主利常は将軍家の婿でもあり、前田家としてどうするかは彼次第です。自分としてはそこまでは請け負えません。」と返事したと伝えられる。(『高岡町図の弁』)

利長は臨終にあたり「我死なば、すなわち天下自ら統一して太平ならん」といったといわれる。「徳川にとって最大の脅威と目されている(豊臣恩顧の)自分が死ねば、天下騒乱の種がなくなり、(最大外様大名の藩主利常が将軍家と強い絆で結ばれているので)徳川幕府のもとに天下はおのずと平和になっていくはずだ」というのである。

利長は、慶長19年(1614)高岡城で亡くなる。享年51歳。

  • ろ・・・高岡城之図(部分、複製)(原資料:金沢市立玉川図書館近世史料館蔵、複製・提供:高岡市立博物館蔵)

前田利常のプロフィール

利常は、文禄2年(1593)に金沢城で利家の4男として生まれた。母は千世(寿福院)。利長の異母弟である。幼少の頃、利常は藩主利長に代わって守山城にあった前田長種のもとで傳育された。この長種の室は利長の実姉幸である。 慶長5年(1600)8月、利長が小松で丹羽長重と激突し(浅井畷の戦)、和したとき、利常は人質として小松に送られている。10月に丹羽長重は「関が原の戦い」の戦後処理で小松の封を解かれるが、利常は城代となった前田長種とともにそのまま小松に留まることとなる。

翌慶長6年(1601)、利長は嗣子を利常と定め、利常を金沢城に迎える。同年、将軍秀忠の娘珠姫(のちの3代将軍家光の実姉)が3歳で金沢の利常のもとに輿入れした。慶長10年(1605)に利長から家督を譲られ、第3代加賀藩主。将軍を舅とする利常は、このとき13歳である。

慶長19年(1614)利長が高岡で死去すると、利長の実母芳春院は、長かった江戸での人質生活から開放され、金沢に帰った。代わって人質として江戸に行ったのが利常の実母寿福院である。

利常は、異母兄利長を尊崇する念が大きく、元和元年(1620)幕府の一国一城令で高岡城が廃城となって利長の家臣団が金沢に帰った後、兄の開いた高岡の町がそのまま廃れてしまうのを惜しみ、様々な特権を与えて町の存続を図った。おかげで高岡は商工のまちとして越中西部の流通経済の要衝として栄えることとなった。

また、兄利長の菩提を弔うため、正保2年(1645)からおよそ20年の歳月をかけて瑞龍寺の造営を行うとともに、利長の33回忌にあたる正保3年(1646)に武将の墓としては破格の(日本一の大きさ)利長公墓所を建立している。

利常は、大坂の陣(特に夏の陣)で大いに奮戦し大きな功績を立てたほか、大坂城や江戸城の修築普請などにも積極的に参加する一方、元和8年(1622)に室の珠姫(法名:天徳院)が亡くなると、利常はその菩提を弔うため、同年高野山に天徳院を建立し、さらに翌年金沢の小立野に同名の曹洞宗天徳院を創建している。あたかもその年は家光が3代将軍となった年にもあたる。また、金沢城内に東照宮を勧請したりもしている。このように利常は、常に徳川氏を意識し、幕府との協調に心を砕いている。

利常は「鼻毛を伸ばした馬鹿殿様を装って加賀藩を安泰に導いた」とよくいわれるが、伊達政宗なども「日本一の大名」と高く評価したという。

  • は・・・三代藩主 前田利常公(部分、所蔵:那谷寺・提供:高岡市立博物館)

写真:前田利常

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