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開町時から明治期までの高岡

開町時の町

加賀藩2代藩主前田利長公が、「関野」と呼ばれていた荒地に築かれた高岡城に入城したのは、慶長14年(1609)9月13日のことです。

公の入城に随従した家臣は430名余り。町民は、富山・守山・木舟の旧城下や美濃・近江・越前等前田氏縁の地より集まった630戸、武士・町民併せても5千人に満たない人々で、高岡町が開かれました。

城の周囲や南側に連なる台地上には武家屋敷を配置し、町屋は鴨島町~京町(旧油町)、片原町~風呂屋町の一円を約75m(京間40間)四方の碁盤目状に割りふられました。町人は、間口1.5間・奥行17間程の敷地を、藩より無租地として分け与えられました。

  • い・・・高岡開町の祖 二代藩主 前田利長公:前田利長(長光寺本複製)高岡市立博物館蔵
  • ろ・・・前田利長公像(高岡古城公園)

写真:前田利長公画

写真:前田利長公銅像

写真:現在の土蔵つくりの町並み

このような町は「本町」と呼ばれ、旧武家屋敷を借りて町立された「地子町」や、町の周辺部の「散町」とは区分されました。

御車山を所有する「山町」10ヵ町は、本町35ヵ町の中心に位置しています。

  • は・・・前田利長在城時(1609年~1614年)の高岡町[推定]:高岡市立博物館常設展解説パネルより転載

図:前田利長在城時(1609年~1614年)の高岡町[推定]

城下町から商工業都市への転換

高岡城は、元和の一国一城令により破却されました。城を失った城下町は、衰退への道をたどるのが常でした。3代藩主利常は、元和6年(1620)に高岡町民の転出を規制し、商業都市への転換を図りました。

古城内には、藩米蔵が置かれ、蔵宿や批屋(へぎや)等の多くの商人により米相場が形成されるようになりました。

加越能三国では最大の生産量を誇り、江戸大阪まで流通した越中米流通の中心地として、高岡は繁栄しました。また、専売品であった塩や鳥魚類は高岡に集められ、藩内各地へ供給されました。綿・布・鋳物等の生産、流通も町経済の発展にとって忘れることの出来ないものです。

  • に・・・近代工場の第1号、高岡紡績(株)/明治26年:高岡市立博物館写真提供
  • ほ・・・北陸の米相場をリードした高岡米穀取引所/明治期:高岡市立博物館写真提供

写真:近代工場の第1号、高岡紡績(株)/明治26年

写真:北陸の米相場をリードした高岡米穀取引所/明治期

明治期の高岡

明治に入ると、高岡町の行政機構はめまぐるしく変遷し、明治16年に富山県の所属となりました。そして、明治22年4月1日には、全国で初めて市制が施行された31 都市の一つとして「高岡市」が誕生したのです。

明治初期の高岡は人口2万人を越え、商工業都市としてますます発展をとげることになります。明治17年に設立された「高岡米穀取引所」は、名古屋や金沢の米取引にも匹敵する、全国7位の取引高を誇ったこともありました。銅器産業も、幕藩体制の崩壊により職を失った加賀象嵌師(ぞうがんし)を招いて高級化指向を目指す等、新たな隆盛期を迎えています。

明治20~30年代にかけては、「高岡紡績」や電灯会社の設立や鉄道の開設と続き、日本海有数の商工業都市としての、高岡の位置はますますゆるぎないものとなっていきました。

  • へ・・・高岡、伏木間を結ぶ中越鉄道の開通/明治33年:高岡市立博物館写真提供

写真:高岡、伏木間を結ぶ中越鉄道の開通/明治33年

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